堤取締役からのエッセー「在宅騒音雑感」

在宅騒音雑感

堤 恒一郎

コロナ禍で在宅の時間が長くなり、二階の自分の部屋にいると、平日の日中の外の音が気になるようになった。去年(2021年)の秋から家の近所でマンションの建設工事をしているので、解体工事の音や、足場を組む音、コンクリートを流し込む音など、どれも結構気に掛かる。特に金属製の音は、神経に障るような気がする。本を読んでいたりするとなおさらだ。

気にしてばかりいてもはじまらないので、やり過ごそうと試みる。ところが、そう思うとかえって意識がそちらにいくようで、イライラしてくる。中々うまくいかなかったが、それでも段々と要領を得て、「聞こえてはいるが、あまり気にならない」という感じになってきた。そうするとしめたもので、今では余り気にせずに過ごせるようになった。

ところで、「聞こえてはいるが意識をしない」ということについてだが、これは神経症の治療法である「森田療法」の考えにも通じるところがあると思い当たった。大雑把に言うと、フロイトは「無意識の意識化」で、森田療法は「意識の無意識化」だと、前に本で読んだ記憶がある。(渡辺利夫『神経症の時代 わが内なる森田正馬』)
音が聞こえて意識はしてはいても、気にしない(無意識化)の境地だ。これはある意味、東洋的な悟りの境地にも方向性は通じるのかもしれない。

話題を耳から目に転じると、そういえば、旅行などで、見た目にはいい景色と思っても、写真に撮るとそうでもないことが多いことを思い出した。
そんなことを考えていたら、次のような曾野綾子さんの言葉に出合った。

昔、生まれつき全盲の人に、「写真と絵はどう違いますか」と訊かれたことがある。これはなかなか重要な質問で、私が返事をためらっていると、夫は答えた。
「写真というのは、こちらが見たくても見たくなくても、そこにあるものを全部写して見せるんです。でも絵は違います。町を描いていても、赤いスカートの娘と、彼女の連れている犬を描きたいんだったら、他のもの、電信柱とか酒屋の店先とかその隣の喫茶店とかは、弱く描いてしまうんです」(曾野綾子『90歳、こんなに長生きするなんて。』)

夏目漱石も有名な『草枕』のはじめの方で、芸術の使命について、こう書いている。
「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有い世界をまのあたるに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。」と。

芸術はそれでいいのだろうが、反面、カエサルが言ったとされる「多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」にも注意を払う必要があると思う。見たいものしか見ないのでは、判断を誤るだろう。

弊社の主要な業務は職業紹介で、モットーは「三方よし」である。客観的でありつつも、紹介依頼者の方のいい所をよく見て、前向きの想像力も加味しながら、求人先にご紹介していくのは創造的な営みであり、結果として「三方よし」にもなるのではないか。そのためには視野を広げ、柔軟な思考を心がけ、日頃から精進を重ねていく必要があるのだろうと、改めて思った。

以上

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